バッハの森通信 第107号 2010年4月20日発行

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バッハの森通信 第107号 2010年4月20日発行

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巻頭言

故人を想い、「死」を知る

新しい命に生きるために

 去る3月28日に、石田一子の永眠一周年を記念する「メモリアル・コンサート」を開きました。コンサートの後で皆さんから、「感動した」という感想をうかがい、改めて多くの方々と一つの思いを持つ喜びを楽しむことができました。あのとき私たちを結び付けていた“一つの思い”は、何だったのでしょうか。明らかに、“故人を想う”心でした。

 言うまでもなく、あのとき皆さんが想っていた故人は、15ヶ月前に亡くなった一子のことだと思いますが、実は、あのコンサートは、もう一人の“故人”を想う音楽で構成されていました。2000年前に受難したイェス・キリストを想う音楽です。

     *     *     *

 

 J. S. バッハの「マタイ受難曲」は感動的な音楽として有名ですが、その感動は、決して偉大な作曲家が独りで創り出したものではありません。少々調べて見ると、そもそも「受難曲」という音楽形式が、ナザレのイェスが十字架につけられてからバッハの時代まで1700年間、“故人”イェスを想う人々の思いの積み重ねの中から生じたことが分かります。その始まりは、四福音書がそれぞれ伝えるイェスの受難物語で、相当早い時代から、特に復活祭の3日前、彼の十字架上の死を記念する聖金曜日に、これを配役に従って分担・朗読したことが知られています。

 勿論、キリスト教徒が「神の独り子」、いや「神」と呼ぶほど、ナザレのイェスが比類のない偉大な人物であったことが、「受難曲」が伝える深い感動の源泉であることは間違いありません。しかし、一子のような普通の人であっても、その死を想うときに、私たちが感動を覚えるのはなぜでしょうか。

 

     *     *     *

 

 特定の人の死に、誰でも特別な想いを抱くわけではありません。生前、その人と深い心の交流があった人たちだけが、その人を亡くしたときに、“故人を想う”、いや“想わざるを”えなくなるのです。

 そして、愛する者の死を受け入れたくない想いから、亡くなった人が、今はあの世で“生きている”と考えるようになります。この想いをくみ取って、「今は天国から見守っていてくださいますよ」と慰める風習が定着しました。この慰めの言葉の優しさを拒否するつもりはありません。しかし、愛する者を失った人に本当に必要な慰めは、残された者が生きる道を示すことではないでしょうか。

 自分の死を経験した人は誰もいません。そもそも、普段、私たちは「死ぬ」ことを考えて生きていません。いや、わざわざ「生きている」と考えることも滅多にありません。私たちの肉体には、本来、生きる力が宿っているからです。私たちが「死」を実感するのは、深い心の交流があった人が死んだときです。こうして「死」を知って初めて私たちは、自分が「生きている」ことに気づくのです。

 2000年前に、十字架で処刑されたナザレのイェスを捨てて逃げ散った弟子たちが、故人となったイェスをどうしても忘れることができず、再び集まって彼を“想い出した”ときに、自分たちが生まれ変わって新しい命に生きる者になったことを経験しました。新約聖書はこの出来事を“復活”と呼びます。その後、この経験を継承した人々がキリスト教徒になりました。それを16世紀のコラールも歌います。「主の憐れみにより私たちを殺し/み恵みにより蘇らせてください/古い人を捨てて新しく生きるために」。バッハの森では、「死」を知り、生まれ変わって新しい命に生きる感動を伝える歌を歌っています。皆様もご一緒に歌いませんか。

(石田友雄)

 

MEDITATIO/メディタツィオ/瞑想

石田一子の遺産

命を考える学び舎、バッハの森

*このメディタツィオは、石田一子の永眠一周年を記念する「メモリアル・コンサート」(2010年3月28日)で朗読されました。

 石田一子は、一昨年、2008年12月30日午前8時35分に、筑波メディカル・センター緩和ケア病棟で永眠いたしました。享年79歳11ヶ月と13日でした。翌31日大晦日に、私たちは、ここバッハの森記念奏楽堂で「石田一子を送る集い」を開いた後、つくばメモリアルホールで火葬にしました。彼女の遺骨は今も遺影と共に、バッハの森管理棟のホールに安置されています。

 翌1月、バッハの森は、服喪のため休館いたしましたが、2月初めからは通常通り活動を再開し、3月22日に、葬儀に代え、「石田一子を記念する集い」を開きました。1年前になります。亡くなってからは15ヶ月の月日が流れました。

深夜に思い出す日常的出来事 

 この一年、バッハの森はそれまでと同様、活発に活動を続けることができました。多くの方々の熱心なご参加と温かいサポートがあって初めてできたことですが、私自身は多忙を極めました。共同主宰者が亡くなったのですから当然です。勿論、オルガンのレッスンなど、代われないことが沢山あり、実際にできた代役は限定されていましたが、それでも、この一年、これまでよりはるかに“忙しかった”というのが実感です。

 このような生活をしておりましたため、毎日毎日、目先の仕事に追われて、一子のことを思い出す余裕はありませんでした、少なくとも日中は。ただ、深夜、午前2時、3時頃ふと目が覚めると、闇のしじまの中で、一子と一緒に過ごしたいろいろなことが、次から次に思い出されることがしばしばありました。50年前に東京で初めて出会って親交を深めた頃のことや、エルサレムで結婚してから37年間に起こった様々な出来事が、何の脈絡もなく、前後関係もすっかり忘れているのに、一瞬一瞬の情景として、まるでスナップ写真のようにはっきりと見えてくるのです。そのほとんどは日常的な情景で、特に重要な意味を持っていた出来事ではないのですが、どれもこれも見ていると心が熱くなるのを覚えます。これをすべてお話ししたら何時間あっても足りないでしょう。ここでは一つだけ、皆様にも興味を持っていただけるかもしれないエピソードをお話しいたします。

ツェレ郊外で聴いた「森は静まり」

 バッハの森が創立された1985年より2年前の夏休みのことだったと記憶します。今、皆様の前に建っているオルガンの建造者、ユルゲン・アーレントを二人で初めて訪ね、バッハの森のオルガンの建造をお願いすることになりました。8月末にレール・ロガのアトリエを訪ねたいがご都合はいかがですか、と問い合わせたところ、その頃はハノーヴァーに近いツェレでオルガンを修復しているからそこで会おう、という返事をいただきました。

 それでツェレに行ったのですが、どうやって行ったのか、アーレントさんがどんなオルガンを修復していたのか、全く覚えていません。このとき私たちは、これから創設するバッハの森の理想を熱心に語り、最初、余り乗り気でなかったアーレントさんを説得して、結局オルガン建造を引き受けていただいたわけですが、肝心な話し合いの場面について、今は大変おぼろげな記憶しかありません。それなのに、何と言うことのない二つの情景だけをはっきり覚えているのです。

 一つは、アーレントさんが、まだ少年だった息子のヘンドリックとツェレ郊外の森の中に止めたキャンピング・カーで生活していた様子です。暗くなるとそこを流れている小川で入浴している、と言って笑っていました。

 もう一つは、アーレントさんと別れて森を抜け、はるかに広がる野原を通ってツェレの町に向かって歩いていたときのことです。夕暮れでした。すると、はるか町の方から、多分、教会の塔か、ラートハウス(市役所)の屋上から吹いていたのでしょう。トランペットが鳴り響いてきました。

 (ここで、メルカールトさんにその旋律を弾いていただきます。)

 これを聴いて、一子がすぐ「あ、ヌン・ルーエンだ」と言いました。17世紀最高の詩人、パウル・ゲルハルトが作詞した“Nun ruhen alle Waelder”のことです。それは次のような美しい歌です。「今や森は静まり/けものも人もまどろむとき/目覚めよ、わが魂/目覚めて思い始めよ、創造主(ツクリヌシ)のみ心にかなうことを」。

 この旋律で歌うコラールはこの他にも数曲あるので、果たしてこのときトランペッターが「森は静まり」を吹いていたかどうか分かりませんが、夕暮れの森の情景から「森は静まり」だと確信したのです。

失われた一緒にいた喜び

 このように何ということのないシーンばかりが、深夜ふと目が覚め、暗闇の中でじっと目をつむっている私に、次から次と見えてくるのです。勿論、一子が痛みに苦しんだ最後数ヶ月の思い出の数々は、やはり最近起こったことですから、実に鮮明に見えてきます。ところが、不思議なことに、この痛ましい記憶も含めて、すべての思い出がどれもこれも全部“楽しかった”という思いで、私を一杯にします。そこで「あぁ、楽しかった」とつぶやくのですが、同時に涙が湧き上がってきて止まらなくなります。

 そこで自問自答します。「お前は楽しいのか、悲しいのか」。その結果、先ず、悲しい思い出も含めて全てが“楽しい”のは、思い出される出来事そのものが楽しいわけでも悲しいわけでもなく、そこに私が一子と一緒にいて、彼女と同じ経験をしたことなのだ、ということが分かりました。そして、聖書時代の人々が、最高に祝福された状態を「インマヌエル」(神様が私たちと一緒にいてくださる)と表現したことを思い出しました。私たちにとって、「愛する者と一緒にいる」ことに優る喜びはない、ということです。

 では何で悲しいのか。勿論、「一緒にいた人」がいなくなったからです。私にとって、一子が亡くなった、いなくなってしまった、という喪失感は現実そのもので、未だにそれを打ち消す方法を知りません。ここでお断りしておきたいことがあります。今ここにも、亡くなった愛する方と対話を続け、今は亡き方から励ましを受けている、という経験をお持ちの方々がいらっしゃることと思います。そのような方々にとって、亡くなった方との対話が、間違いなくリアルな経験であることを疑おうとは思いません。しかし、それと同じように、私がもはや一子と対話できないという思いも、ご理解いただければ幸いです。死者とどのような関わり方をするかということは、多分に各人固有の文化に根ざした問題なのではないでしょうか。

 お話したとおり、一子の遺骨と遺影は私が住む管理棟のホールに安置されており、常時見ているのですが、花以外、特に飲食物を供えたり、話しかけたりしたことはありません。多分、私が仏壇のない家で育ったためではないかと思います。再びお断りしますが、毎朝仏壇の前に坐り、先祖代々の位牌に供えものをする習わしを、私は大変意義深いと考えおります。ただ私自身がそのような文化環境で育たなかったということです。

バッハの森の原点

 いずれにしても、今、私は、遺骨と遺影よりはるかに強く、一子と私、いや私たちと言うべきでしょう、一子と私たちを結びつけている絆があると思っています。それは、一子が私たちに遺したもの、言うまでもなく、バッハの森です。

 今年で創立25周年を迎えるバッハの森は、この間、実に多数の方々のご参加とご助力を得て、これまで活動を続けてくることができました。バロック時代の教会音楽という、日本ではほとんど知られていないテーマをかかげ、資格を授与する学校制度をとらず、純粋に心の糧を追い求める学び舎である私塾・バッハの森が、これほど長期にわたり、このように多数の皆様からご賛同を得ることができた理由は何だったのでしょうか。いろいろあったと思いますが、その原点は、間違いなく、バッハの森を創立した一子の潔い姿勢にあったと思います。

 1980年に彼女の父が95歳で他界し、東京・文京区大塚の土地と家屋を相続すると、一子は、この遺産を用いて、彼女が長年温めてきた理想のオルガンを建造し、そのオルガンを用いて教会音楽の学び舎を設立する夢を実現できないかと考えました。これは、資金計画もないまま、その何年も前から夢物語として、私たちが二人で話し合ってきた計画でした。そこで、一子が相続した遺産を資金にすることとし、長年の夢を具体化するために、私たちは夢中で走り回りました。先程お話ししたアーレント訪問もその一環です。

 ようやく財団法人の設立準備委員会を組織し、そこに寄付の手続きがとれるようになったとき、二人で文京区の法務局登記事務所に行きました。すると、対応に出てきた係りの事務官は、2億円相当の不動産を、訳の分からない法人設立準備委員会に全部寄付するという話が余りにも非常識だと思ったようです。事務的な処理をする前に、一子を諫め始めました。先ず、「寄付をしてしまったら、自分のものではなくなるのですよ」と、それこそ当たり前の注意から始めて、「土地を分割して一部だけ寄付することもできます」と、親切にアドヴァイスまでしてくれました。勿論、一子は「いえ、全部寄付します」と潔く答えました。他に資産と呼べるようなものを何も持っていませんでしたから、このとき、彼女が文字通り“全財産”を捧げたことにより、バッハの森は始まったのです。うちに帰ってから私たちは、あの事務官は、世間知らずのオバさんが、後ろに立っている怪しげなヒモの亭主に騙されて、財産を巻き上げられそうになっている、と心配してくれたようだね、と言って大笑いしました。確かに、準備委員会の代表は私でしたから。

友人と仲間の輪

 こうして創立されたバッハの森で、一子はオルガンの演奏、ハンドベルクワイアの組織など、オルガニスト、教会音楽家として活動しましたが、同時に、集まった人々にオルガン音楽と教会音楽が何であるかを伝えるために、自ら熱心に学びました。事実、1989年にアーレント・オルガンが建造されてから8年もかけて、この新しいオルガンの演奏法をほとんど独学で学び、ようやく1997年からオルガン教室を開きました。他方、彼女はバッハの森の建物と庭の維持管理をするハウスキーパーの仕事を楽しみ、それと共に会員と交わって友達になることに心を砕いていました。

 バッハの森は出入り自由な組織なので、この25年間に、多分2000人、いやそれ以上の人たちが会員になり、また止めていったと思います。現在は約200人ですが、最初の数年間は500人近い会員がいたこともあります。一子は新入会員の名前と顔をすぐ覚え、会員一人一人と個人的に友達になろうと務め、遠方に引っ越した人にはマメに手紙を書いて連絡を取り、バッハの森の活動を知らせていました。このように、一子が心を砕いて創り出した友人や仲間の輪が、現在、バッハの森を動かしているのです。

 ですから、一子が私たちに遺した遺産、バッハの森は、建物、オルガン、楽譜のようなモノだけではありません。バッハの森を支える友人や仲間の輪こそ、モノに優る彼女の遺産なのです。

命のある限り生きることを考える

 しかし、もう一つ、バッハの森に集う私たちに一子が遺した大切なことがあります。それは、彼女の“死”です。勿論、一子は死のうと思って死んだわけではありません。しかし、定められた死を死ぬことによって、私たちに非常に重要な遺産を遺してくれました。

 一昨年12月2日に入院して30日に亡くなるまで、緩和ケア病棟で過ごした一子の最後の4週間については、昨年の「石田一子を記念する集い」で報告しましたが、もう一度ここで振り返っててみようと思います。

 そもそも院長から、もはや治療する方法がなくなったから、この病棟では痛みの緩和しかしないがそれでいいか、と言われて入院したわけですから、末期ガンであることを、一子は最初から十分理解していました。事実、彼女が入院した翌日、面談した担当医は、一週間単位でしか余命を語れない病状だと、私に告げました。その診断を直接彼女に伝えることは控えていただきましたが、彼女の余命について初めてはっきりと告知され、私はショックを受けました。ところが、手厚い看護を受けて痛みを緩和していただくと、入院の1週後は、入院前より元気になったように見えました。ただし、毎日毎日、体力は確実に落ちていきました。その後なお3週間、私もお医者さんも、死期が迫っていることを本人は自覚していないのではないかと思うほど、彼女は最後まで明るく、前向きでした。しかし、後から考えると、間違いなく一子は死が迫っていることを知っていました。ただ、生きている限り生きることを考える、という生き方をしていたのです。ですから、持ち込んだ5種類の漢方薬を、朝昼晩と丹念に記録をつけながら服用し、来年のオルガン教室の新しい学習計画を練り、全く自力で立てなくなっても、ベッドの中でリハビリに励んでいました。

 しかし、日を追って痛みが増し、体力が落ちていくのを感じていましたから、死期が近いことを理解していなかったはずはありません。それでも、この最後の4週間に、彼女が落ち込んだり、不安になったり、取り乱したことは一度もありませんでした。いつも平安で穏やかな表情をしていました。証拠があります。死の10日前にお見舞いをしてくださった比留間恵さんと私に囲まれて撮ったスナップ写真です。『バッハの森通信』の石田一子記念号に掲載しましたからご記憶の方も多いと思いますが、今、もう一度見直して見ると、両側の恵さんと私の顔はこわばっているのに、一子は独り微笑んでいます。

 この4週間、私は毎日見舞いに行き、初めの3週間、彼女とまだ普段通り会話をすることができました。何ということのない日常の出来事から、バッハの森のことまで、いつもの調子であるゆることを話し合いましたが、普段より一子が聞き役に回ったのは、致し方ないことです。体力がどんどん落ちていましたから。しかし、黙っていても、一生懸命私の話を聞いていました。「もっとゆっくり話してよ! 考えながら聞いているんだから」と、たしなめられたことがあります。

 入院中いつでも、一子は独りで静かに思いめぐらしていたようです。ある看護師さんが、彼女の病室に入っていくと、いつも独特の静寂な空気がみなぎっていたと、話してくださいました。多分、自分の80年の生涯についても考えていたと思いますが、死を悟った彼女が本当に思いめぐらしていたのは、遺していくもの、すなわち、私のこととバッハの森のことだったようです。恵みさんのお見舞いがあった数日前だった記憶します。一子から朝早く電話がありました。一晩、思いめぐらした結果なのでしょう。私が見舞いに行くのを待てなかったのです。「私、生まれ変わったの。あなたのこととか、バッハの森のこととか、これまでずっと心配してきたけれど、私が心配しなくても、全部、計画された通り、物事は動くようになっていることがよく分かったわ。来年はきっと善い年になるわよ」と彼女は言いました。この意味深長な言葉について、後でもっと詳しく聞きたかったのですが、結局、聞き損ねました。

「み手に委ねて」

 そこで私なりに解釈すると、このときの彼女の心境は、先程演奏した十字架上のイェスの七つの言葉の最後の二つに近かったのではないかと思います。先ず「ことは成し遂げられた」という言葉です。一子は、自分がすべきことは全部終わったという思いに到達したようです。それから「父よ、私の霊をみ手に委ねます」という言葉通りに、すべてをまかせきり、平安な思いのうちに死んでいったのではないでしょうか。

 一子がガンの告知を受けるより少し前のことだったと記憶します。私たちは自分たちのお墓について話し合ったことがあります。私には東京の多摩霊園に、父母と兄弟姉妹が埋葬されている墓があるので、彼女の遺骨もそこに葬られるのが普通の習わしですが、それを承知で彼女は言いました。「多分、許されないことでしょうけれど、私の本当の願いは、私のお骨(コツ)をどこか山奥の雑木林の木の根本に埋めてくださることだわ。墓標とか目印とか何にもいらない。もし周りにすみれが咲いてくれれば嬉しいけれど。ひっそり土に戻れればそれでいいの」。この言葉には、死後も含めて、すべては「み手に委ねて」死んでいきたい、という思いがすでに籠められていたように思えます。

 このように考えてくると、一子が私たちに遺してくれたバッハの森が、オルガンと建物、友人と仲間の輪だけではないことが分かります。一子は自分の死によって、バッハの森が、教会音楽という偉大な文化遺産を通して、与えられた命を私たちがどのように生きるべきか、ということを考える学び舎であることを教えていったのです。

 長い歴史を持つ教会音楽は、様々な状況に応じて死者を想う心が描いた、多種多様な表現をします。これから演奏する「ヨハネ受難曲」終曲の合唱とコラールは、天国、復活、永遠の命などについて歌いますが、これらすべての表現を、一子は「父よ、私の霊をみ手に委ねます」という一言に集約して死んでいきました。彼女が遺したバッハの森に集う私たちが、喜びに溢れて生きることを願って。ですから、今はもう私たちは泣きません。

(石田友雄)

     *     *     *

 

  安らかにお休みください、聖なるご遺骸よ、
  今はもう私は泣きません。
  安らかにお休みください。
  そして、私も休息に導いてください。
  あなたに定められたお墓は
  今からどのような悩みにも閉ざされず、
  私に天を開き、陰府(ヨミ)を閉ざします。

J. S. バッハ:《ヨハネ受難曲》より

 

     *     *     *

 

訃 報

2010年1月11日に、河本哲三さんが亡くなりました。河本さんと知り合ったのは、1980年に、筑波バッハ合唱団を組織して、その練習会場を探しているときでした。当時のつくばには、大学と研究所の一部の建物と、そこで働く人のための公務員宿舎しかありませんでした。そのとき「うちの3階の展示室が空いているから使ったら」と気軽に声をかけてくださったのが、科学技術庁・研究交流センターの所長だった河本さんでした。その後、バッハの森を建てる私たちの計画に大いに賛同してくださり、1985年に財団法人を立ち上げたときから今年亡くなるまで、評議員としてバッハの森の活動を助けてくださいました。感謝とともにご冥福をお祈りいたします。

(石田友雄)

REPORT/リポート/報告

聖 書 に 語 ら せ る
ユニークな講義

 バッハの森の多彩な学習活動の一つに、「入門講座:聖書を読む」があり、講師はバッハの森の主宰者、石田友雄先生です。

 これは10年前に始まった講座で、ずっと旧約聖書を読んできましたが、(私は途中から参加しました)昨年からは新約聖書、それも福音書の読書会が始まりました。この講座はかなりユニークなもので、聖書をして語らしめるという先生の姿勢が随所に感じられます。

 例えば、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)の間の異同を明らかにするために編集された、先生お手製の「対観表」を、各自が机一杯に広げて勉強しております。不思議なもので、これだけのことで、イェスの姿が、今話題の3D画面のように立体的になるのです。またそれぞれの福音書の個性が否応なく浮かび上がってきて、編集の狙いや手口が見えてきます。

マタイとルカの降誕物語

 今年に入ってから読んだ降誕物語の講義について、印象に残ったことを感想と一緒に書き留めてみます。当然、先生のご講義の忠実な紹介ではありません。私事でございますが、加齢と共に難聴が進み、学習能力が急速に低下しておりますので、私の理解は随分自己流ではないかと恐れます。ただ、先生のご講義に触発されて、あれこれと自由に空想を巡らすことを何よりの愉しみにしておりますので、敢えてご講義を聞いて私なりに理解し、考えたことを書かせていただきます。

 「対観表」で見ると、マルコには降誕の記事がないので、空欄が続きます。このように、イェスの誕生の経緯や処女懐胎に関心を示さない(或いは知らなかったのでしょうか)福音書がある一方で、ルカのように壮麗な物語もあるということは、面白いことです。

 一般に、偉人、英雄の誕生物語は、彼らの評価が定まった後で書かれたと言われていますが、イェスの場合も、彼が「キリスト」、或いは「神の子」と認められた時点で、それに相応しい誕生物語が出来上がったようです。そこで「降誕物語」には、「イェス・キリストとは何者か」という問いに対する答えが詰まっています。

 イェスの誕生について、マタイとルカ、両方の福音書が一致して伝える情報は、ヘロ王の時代にユダヤのベツレヘムで、ダビデ王の末裔であるヨセフの子として、しかし聖霊によってみごもった処女マリアより生まれた男子が、天使のお告げに従って、イェスと名付けられた、ということです。

 しかし、その他のことに関しては、呆れるほど両福音書は異なっています。これは、マタイとルカがそれぞれ対象とした読者が違うからだと思います。マタイはユダヤ人の信者を、ルカはその福音書を献呈したテオフィロのような異邦人を読者に想定して著作したのでしょう。

歴史的記憶に訴えるマタイ

 さて、マタイは、系図に続く降誕物語で、ヨセフが、聖霊によってみごもった許嫁のマリアを掟に従って離縁することなく、夢に現れた天使のお告げに従って、妻として迎え入れたという話を語ります。律法に福音が優先することを示唆しているようです。

 次ぎに、再び夢のお告げを受けたヨセフは、ヘロデ王の幼児殺害計画から逃れるため、幼な児イェスと母マリアを連れてエジプトに逃避し、ヘロデの死後、ベツレヘムに戻って来たが、ヘロデの子がユダヤを支配していたので、ガリラヤのナザレに行ってそこに住んだという物語を伝えます。

 これを読む人は、エジプト王に命を狙われたモーセが荒野に逃げたが、その王が死ぬとエジプトに戻って奴隷になっていたイスラエルの民を救い出したという旧約聖書の物語を思い出したはずです。こうして、イェスがモーセの再来であることを自然に理解させ、モーセが神と結んだ契約に代わる新しい契約をイェスがもたらすことを期待させます。これは、ユダヤ人、すなわち、イスラエルの民の歴史的記憶に訴えて、イェスとは誰かということを理解させる方法と言えます。しかし、この説明だけがイェスの実像を伝えていると言われると、「一寸、考えさせてくれ」と言いたくなるのですが。

祝福が基調のルカ

 ルカは、異邦人の読者に対して、マタイのように歴史的記憶に訴える方法は取れないので、旧約聖書から讃美の歌をふんだんに引用して、後にラテン語で“マニフィカト”、“ベネディクトゥス”、“ヌンク・ディミッティス”と呼ばれるようになるような壮麗な文章により、降誕の意味を明らかにしました。これらの讃美の歌には、神の子、救い主、主キリスト、異邦人を照らす光、御民イスラエルの栄光等々、実に多数のキャッチフレーズが盛り込まれていて、ルカの思想が凝縮されているようです。

 考えてみると、神の計画は人の働きを通じて実現されるわけですから、人の誕生にも神はしばしば介入してきました。人の側から見れば、これは神の特別な祝福です。そこで感動的な讃美の歌が生まれます。ルカの降誕物語では、こうした神から人へ、人から神への祝福の文章が基調をなしているようです。

目的はイェス・キリストとの出会い

 イェスがもたらしたものを、マタイは新しい掟として捉え、ルカはイェスの降誕を最大の祝福、聖霊を最大の賜物として捉えているようです。

 このように、マタイとルカの間でさえ、イェス像は必ずしも一つではなく多様です。しかし本当に大切なのは、この多様性の中に共通する芯のようなものではないでしょうか。私たちが福音書の異同を丹念に調べるのも、それらを通底する根源的なものを見つけ出すためです。それは間違いなくイェス・キリストです。福音書、いや新約聖書のテーマが、イェス・キリストとは誰か、ということである以上、肝心のイェス・キリストに出会わなければ、新約聖書を読む甲斐がありません。これから、福音書を読んでいくうちに、イェス・キリストに出会えることを期待しています。

 皆さんも、御自分の眼で聖書をお読みになってはいかがですか。

(長谷川聖人) 

LETTERS/レターズ/たより                         

骨折した右手首のリハビリをしています

2010年1月20日
シュヴェリン・ドイツ

リーバー・トモオ、バッハの森の皆様

 新年のご挨拶、有り難うございました。新しい年に多くのご計画を実現なさる力が、皆様に与えられるよう祈っております。

 ご覧の通り、この手紙に大文字がないのは、左手だけで書いているからです。1月10日に礼拝の後で大聖堂の階段から落ち、右手首の関節の複雑骨折をしました。今は簡単にギブスで固定してありますが、 明日、クリニクで手術を受け、小さな金属板を挿入します。すべて上手く行き、もう一度オルガンを弾けるようになることを願っています。しかし、治るのに半年はかかると言われています。

 5月のワークショップにご招待をいただき、有り難うございました。大変嬉しかったのですが、この状態では、当然、うかがうことができません。

 トモオ、あなたのお手紙から、カズコがいなくなって、あなたがどれほど寂しい思いをなさっているかが分かります。あなたたちは、実際、生活を共になさっていただけではなく、バッハの森は本当にあなたちの共同プロジェクトでした。喜びや問題を分かち合える人がいないことは、本当に大変なことでしょう。それでも、あなたがこれからも、バッハの森のリーダーとして活動を続けてくださることを、強く願っております。

(ヤン・エルンスト)

2010年3月13日

バッハの森の皆様

 皆様の寄せ書き、嬉しくいただきました。沢山のお見舞いのお言葉、本当に有り難うございました。10日前から、リハビリのためハンブルクの特別な病院に入院しています。右手の関節をもう一度動かせるようにするためには、いろいろな治療が必要なのです。ただ治療効果が分かるまでには、何週間もかかるようです。もう一度オルガンを弾けるように治して欲しいと願っています。皆様に心よりのご挨拶を送ります。

(ヤン・エルンスト)

  

日 誌(2010. 1. 1 - 3. 31)

1. 13 来訪 中悦子氏(社団法人茨城県観光物産協会)取材の打ち合わせのため。
1. 14 来訪 石崎桂吾氏(茨城県企画部)他3名。
1. 15 運営委員会 参加者4名。
1. 16 取材 中悦子氏。
1. 16 理事会・評議員会 参加者11名。
2. 5 運営委員会 参加者4名。
2. 8 来訪 斉藤幸雄氏、山岸美智子氏(山川出版社)
2. 26 運営委員会 参加者3名。
3. 4 塗装 奏楽堂外壁・デッキ工事(3月17日終了)。
3. 5 運営委員会 参加者3名。
3. 20 理事会・評議員会 参加者10名。
3. 20 オルガン調律 三橋利行氏。
3. 28 メモリアル・コンサート 参加者71名。

J. S. バッハの音楽鑑賞シリーズ
「コラールとカンタータ」(JSB)

1. 9  第281回(新年祭)、
カンタータ「主なる神よ、あなたを私たちは誉め称えます」(BWV 16);
オルガン:J. S. バッハ「私を助け、み神の恵みを誉め称えさせよ」(BWV 613)、
ジャン=フィリップ・メルカールト。参加者16名。

1. 16 第282回(顕現祭)、
カンタータ「最愛のイマヌエルよ、信仰者の君公よ」(BWV 123);
オルガン:G. F. カウフマン「麗しきイマヌエルよ」、松村治美。
参加者17名。

1. 23 第283回(顕現祭後第1主日)、
カンタータ「私のイェスを私は放さない」(BWV 124);
オルガン:J. G. ヴァルター「同上」、松村治美。
参加者11名。

1. 30 第284回(顕現祭後第2主日)、
カンタータ「私のため息、私の涙は」(BWV 13)、
オルガン:G. F. カウフマン「今やすべての森は静まり」(「すべての私の業に」)、海東俊恵。
参加者14名。

2. 6  第285回(マリア潔め祭)、
カンタータ「新しい契約の喜びの時よ」(BWV 83);
オルガン:J. S. バッハ「平安と喜びをもって私はかなたへ行く」(BWV 616)、當眞容子。
参加者11名。

2. 13 第286回(顕現祭後第3主日)、
カンタータ「私の神がのぞまれること、それが常に起こるように」(BWV 111);
オルガン:J. パッヘルベル「同上」、安西文子。
参加者12名。

2. 20 第287回(顕現祭後第4主日)、
カンタータ「神がこの時に私たちと共におられなければ」(BWV 14);
オルガン:J. G. ヴァルター「同上」、吉田暁子。
参加者12名。

2. 27 第288回(七旬節)、
カンタータ「私は私の幸いで満足している」(BWV 84);
オルガン:G. ベーム「愛する神にのみ支配させる者は」、笠間きよ子。
参加者14名。

3. 6  第289回(六旬節)、
カンタータ「私たちを維持してください、主よ、あなたのみ言葉の許に」(BWV 126);
オルガン:G. ベーム「同上」、當眞容子。
参加者14名。

3. 13 第290回(エストミヒ)、
カンタータ「主イェス・キリストよ、真の人にして神よ」(BWV 127);
オルガン:J.-Ph. メルカールト「同上」、古屋敷由美子。
参加者14名。

3. 20 第291回(パルマールム)、
カンタータ「天の王よ、歓迎いたします」(BWV 182);
オルガン:J. G. ヴァルター「イェスの受難と痛みと死は」、金谷尚美。
参加者11名。

学習コース

バッハの森・クワイア(混声合唱)
1. 9/15名、1. 16/18名、1. 23/14名、1. 30/19名、
2. 6/18  名、2. 13/17名、2. 20/17名、2. 27/18名、
3. 6/16名、3. 13/18名、3. 20/17名、3. 27/21名。

バッハの森・ハンドベルクワイア
1. 9/6名、1. 16/6名、1. 23/6名、1. 30/7名、2. 6/5名、
2. 13/6名、2. 20/4名、2. 27/6名、3. 6/6名、3. 13/6名、
3. 20/6名、3. 27/6名、3. 28/6名。

バッハの森・声楽アンサンブル
1. 9/7名、1. 16/7名、1. 23/5名、1. 30/7名、2. 6/6名、
2. 13/7名、2. 20/5名、2. 27/6名、3. 6/7名、3. 13/7名、
3. 20/7名。

教会音楽セミナー(1)
1. 7/7名、1. 14/9名、1. 21/9名、1. 28/7名、2. 4/7名、
2. 18/7名、2. 25/6名、3. 4/7名、3. 11/10名、3. 18/6名。

教会音楽セミナー(2) 1. 26/6名、2. 23/7名、3. 16/4名。

入門講座:聖書を読む
1. 9/7名、1. 16/8名、1. 23/7名、1. 30/10名、2. 6/9名、
2. 13/9名、2. 20/11名、2. 27/8名、3. 6/7名、3. 13/7名。

コラールを読む
1. 16/6名、1. 30/6名、2. 13/6名、2. 27/5名、3. 13/4名。

コラールを歌う
1. 9/9名、1. 16/12名、1. 30/11名、2. 6/11名、2. 13/12名、
2. 20/11名、2. 27/11名、3. 6/8名、3. 13/11名。

オルガン教室
1. 7/3名、1. 14/4名、1. 16/2名、1. 21/3名、1. 28/4名、
1. 30/3名、2. 4/4名、2. 6/2名、2. 13/3名、2. 18/4名、
2. 20/2名、2. 25/3名、2. 27/3名、3. 11/4名、3. 13/2名。

オルガン練習
1. 4/1名、1. 5/4名、1. 6/2名、1. 7/2名、1. 8/2名、1. 9/1名、
1. 10/1名、1. 11/1名、1. 12/2名、1. 13/3名、1. 14/3名、
1. 15/2名、1. 16/1名、1. 17/1名、1. 181名、1. 19/4名、
1. 20/3名、1. 21/2名、1. 22/2名、1. 23/2名、1. 25/1名、
1. 26/2名、1. 27/5名、1. 28/1名、1. 29/4名、1. 30/1名、
2. 1/1名、2. 2/3名、2. 3/4名、2. 4/1名、2. 5/3名、2. 6/1名、
2. 7/1名、2. 8/1名、2. 9/3名、2. 10/3名、2. 11/1名、
2. 12/4名、2. 13/2名、2. 16/3名、2. 17/3名、2. 18/2名、
2. 19/3名、2. 20/1名、2. 22/1名、2. 23/1名、2. 24/5名、
2. 25/1名、2. 26/3名、2. 27/1名、2. 28/1名、3. 1/1名、
3. 2/4名、3. 3/3名、3. 4/1名、3. 5/3名、3. 6/1名、3. 8/1名、
3. 9/3名、3. 10/1名、3. 11/1名、3. 12/3名、3. 13/1名、
3. 14/1名、3. 15/1名、3. 16/2名、3. 17/1名、3. 18/1名、
3. 19/2名、3. 20/1名、3. 24/2名、3. 26/2名、3. 27/1名、
3. 30/1名、3. 31/3名。

 

寄付者芳名(2010. 1. 1 - 3. 31)

一般寄付
5名の方々から計66,677円のご寄付をいただきました。

石田一子追悼寄付(敬称略日付順)
3名の方々から計18,000円のご寄付をいただきました。

建物修繕費用積立寄付
48名の方々から計276,000円のご寄付をいただきました。