バッハの森通信第73号 2001年10月20日 発行


巻頭言 「戦争と飢饉の不協和音」

音楽を「きっかけ」に問題を考えよう

 9月11日にイスラム原理主義者過激派が、ハイジャックした航空機で、ニューヨークの世界貿易センタービルに自爆テロを敢行し、それに続いて超高層ビルが崩壊するショッキングな様子が、何日間もテレビで繰り返し放映されました。この前代未聞の凶行を伝える映像を、誰も忘れることができないでしょう。
 それから4週間後にアフガニスタンで戦争が始まりました。日本でもテロの恐れがある場所の警護を厳しくし、自衛隊派遣を可能にする法律を慌てて整備し始めました。世界中が騒然としているので、私たちも落ち着きません。
 それにもかかわらず、幸いなことに、私たちは、まだ「平和」な社会で「平和」な日常生活を送っています。今のところ、私たち一般の日本人は、直接身に迫るテロや戦争の危険を感じていません。毎日、テレビは生々しい映像とともに戦争関連のニュースを伝えますが、自分の身に起こらないかぎり、本当のテロや戦争も、テレビの画面で見慣れてきた仮想現実と区別がつかないのです。
 それでも、「対岸の火事」「他人事」ですませていていいのか、と考え出した人も大勢いるはずです。


 バッハの森の10月の教会音楽研究会と教養音楽鑑賞シリーズでは、J. S. バッハの教会カンタータ:「私たちから取り去ってください、主よ、誠実な神よ」(BWV 101)を学びました。これは、1584年にマルティン・モラーが作詞した同名のコラールに基づくカンタータで、次のような歌詞で始まります。

私たちから取り去ってください、
主よ、誠実な神よ、
この重い罰と大きな苦難を。
これはすべて
私たちの無数の罪の報いです。
守ってください、戦争と飢饉、
疫病と火災、大きな悩みから。

 この歌詞に作曲したバッハの音楽は、聴いていると気持ちが悪くなるような不協和音と激しい打撃音の連続で、研究会に出席していたある人が、「間違って演奏しているのかと思った」と言ったほどです。不協和音は戦争と飢饉、疫病と火災を表し、打撃音は、人間を神が厳しく打ちすえる重い罰を思わせます。この恐ろしい音楽にかき消されそうになりながら、「私たちから取り去ってください」という嘆願が、コラール旋律で歌われます。
 このカンタータを聴くと、作曲者バッハが、作詞者モラーが経験した戦争、飢饉、疫病、火災などの大きな悩みを追体験していることが分かります。言い換えると、モラーの経験を、バッハは「他人事」とは考えられなかったのです。しかも、モラーとバッハは、災害を「罪の報い」である「重い罰」と考え、「自分の責任」として受け止めています。私たち現代人は、戦争や災害を「神罰」と考えることに抵抗を覚えます。しかし、自分にも責任があることは分かってきました。災害を引き起こす自然破壊は良い例です。


戦争が早く終結することを願っています。しかし、今回のテロと戦争を引き起こした諸問題は、それほど容易に解決されるとは思えません。今、私たちがなすべきことは、「自分の責任」として問題を考え始めることです。と言っても、テロや戦争に直接関係する問題だけを意味しません。むしろ、このような世界で、「自分の責任」とは何か、自分はどのように生きるべきか、という問題を考えなければならないのです。
 問題を考えるためには「きっかけ」が必要です。バッハの森では、この「きっかけ」を得るために音楽を学んでいます。バッハの教会カンタータが、私たちに問題を提起してくれることについてはすでに述べました。現在練習しているパレストリーナのミサ曲は、他人の声を聴きながら声を出して、すなわち、自分の責任を果たして、調和ある世界を創り出す難しさと素晴らしさを教えてくれます。音楽を「きっかけ」に「自分の責任」を考えてみたい方々のご参加をお待ちしています。

(石田友雄)



REPORT/リポート/報告

この秋のシーズンから、毎週木曜日午後7時30分〜9時に開かれる、「教養講座:聖書を読む」が始まりました。ここに第1回(9月6日)の要約を報告します。

聖書の考え方を理解するために
石田友雄: これから新しいプログラムを始めます。皆さんが、ただ私の話を聞こうと思ってここに集まったなら、それは間違いです。皆さん全員に発言していただきます。それは、この会の目的が、聖書の考え方を理解することだからです。自分で考えずに、受け身に話を聞いているだけでは、理解することはできません。
 まず一人ずつ、聖書とはどんな書物か、自分の考えを短く話してください。では、Mさんからどうぞ。
M: ええ・・旧約は歴史書。と言っても、創世記などは物語ですね。それから、新約は旧約をもとにしてキリスト教的な考えをまとめたもの。
友雄: なるほど。それでは、自分でどこか読んでみましたか?
M: 余り読んでません。創世記とかは面白いから読んだけど、その先は難しいのでやめました。
友雄: それで新約は?
M: 新約は研究会やセミナーで、開いて読めと言われたところだけです。
友雄: 新約の方が面白くない?
M: 面白くないと言うよりは、解からない。例えばパウロの手紙とか黙示録なんて読んでも解からない。
友雄: なるほどね。
M: 最近は少しずついろいろな用語、例えば、「罪」とか「恵」とか、何となくこんなことかな、と考えだしたけど、やっぱり取っつきにくいんです。
友雄: そうでしょうね。
M: ただ、福音書のたとえ話なんかは読んでて面白いし、絵画や音楽になってるのが解かると面白い。
友雄: 有り難う。やはりバッハの森の10年生だから、難しいと言っても随分解ってきましたね。
M: そんなにいませんよ。8年です。
友雄: そうですか。それでも、最近来た人に比べれば、だいぶ知ってますよ。では、次にHさん。

バッハの森で知った聖書への興味
H: 私は、バッハのオルガン曲とかその他の宗教音楽をやりたくてバッハの森に来たのですが、来てみるとルターやバッハが聖書に基づいて音楽を作ったということを知りました。そこで、こういう人たちが、何を考えて音楽を作ったのか知るために、その原点になった聖書を勉強したくなったのです。でも聖書自体は余り読んでません。旧約聖書で読んだことがあるのは詩篇でしょうか。
友雄: 詩篇を読んだなら大したものですよ。
H: 読んだけど、これが歌なのかな、と思いました。
友雄: じゃあ、Nさん。
N: 私の場合は、バッハの森に来なければ、多分一生、聖書を読んでみようとは思わなかったんじゃないかと思います。でも、バッハの森で研究会やセミナーで聖書のあちこちを読まされてみて、とっても不思議な気がしてきました。というのは、特に旧約聖書は3000年、4000年も前に生きていた人たちが書いたものですよね。前は、何千年も前の人たちに関する私のイメージは、槍を持って狩猟をしているというようなものにすぎなかったのですけれど、聖書を学んで見ると、この人たちがもう文字を持っていて、いろいろな生活の具体的な様子や考え方や心情まで書き残し、それを今ここで私たちが読むことが出来るわけで、これは凄いことだなと思いました。
 それに聖書は一部の学者が読む古文書ではなくて、世界中の人がずっと何千年も読み続けてきた書物だということが凄いと思います。
友雄: 卒論を書くために聖書を読んでいましたよね。
N: あの時は仕方なく読んでいたんで(笑)。
Z: 私は小さいときから、親から読み聞かされたり、物語として読んだり、いろいろな形で親しんできましたけれど、この会では新しい気持ちで聖書を見直すことを楽しみにしています。

歴史書として読む面白さ
T: バッハの森に来て、聖書を歴史書として、それまで知らなかったアプローチで読むことを知り、それがとても面白かったので、宗教音楽の歌詞の説明としてだけではなく、こういう聖書を読む会が開かれることを熱望しておりました。以前は、人生訓のようなものとして読んでいました。それが陳腐に見えることもあれば、深く心に刻まれたこともあります。例えば、コリント人への第1の手紙13章の「愛の讃美」が心に残っています。
Y: これまで何回か自分で聖書を読もうとしてみたのですが、なかなか頭に入ってこなくて、何か無味乾燥な文章の羅列というイメージがあります。ただ聖書の言葉についても説明があると、何のことか解かるんですね。でも自分で読んでみると、やっぱり解からない。ですから、聖書という書物は、解かっている人に話してもらいたいと考えてきました。
友雄: 受け身の姿勢ですね。この会を通じてご自分で読む面白さを知っていただきたいと思います。
R: 聖書は子供のときから読んできました。親からは、神様からのお手紙ですよ、と教えられました。ですから、いつもなるほどと思うだけで、別に問題を感じなかったのですが、バッハの森で、偉大な音楽家や画家が聖書に感動して素晴らしい作品を創作したことを聞かされ、その感動の基が何だったのか知りたくなりました。
U: 私もバッハの森に来るようになってから、研究会などで聖書を断片的に読むことには慣れましたが、うちに帰ってから自分で読んでみようとしても、どうやって読んでいいかわからないのです。大体、書名が分からないし、なかなか覚えられません。
友雄: そうですよね。知らない仮名の名前ばかりですものね。昔の聖書は書名を漢字で書いたので、かえって覚えやすかったかもしれませんね。マタイは馬が太いと書いたんですよ。
H+N: エー、ホントですかー。面白いー。
友雄:本当ですよ。だからかえって誤解もありました。本当に馬を太らせることが書いてあると思った人もいたそうですから。(笑)

二つの難しさ
友雄: 皆さん、どうもありがとうございました。どのご発言も理解できます。いろいろな感想をうかがったわけですが、一つ共通点がありました。それは、聖書が難しい書物だということです。全くその通りで、私はこの難しさを大きく二つに分類できると思います。
 第一は聖書がキリスト教会の聖典だということ、そして第二は聖書が日本から遙か離れた中東・地中海地方で、大昔に書かれた書物だということです。
 まず第一の難しさですが、キリスト教徒の信仰によれば、聖書は「神の言葉」です。大体、この定義自体が理解困難ですね。ここに、私を含めて9人いますが、「神とは何か」と質問すると、多分、九つの答えがでてくるでしょう。この質問に対する答えは、聖書を読みながら明らかにしていきます。今は、日本古来の神々とは違って、聖書の神は「絶対者」だということだけ申し上げておきます。そうなると、絶対者の言葉だから、聖書は一字一句間違いがない書物だ。批判することなどできない、ということになってしまいます。
 この教養講座では、このようなキリスト教徒の信仰に囚われないで、自由に聖書を読みます。しかし、それは、長い歴史を通じてユダヤ教徒やキリスト教徒が、聖書を通して神が何を語りかけているのか知るために、熱心に聖書の言葉を調べてきた努力を無視することではありません。この作業を聖書の解釈と言います。このことについてマルティン・ルターが言っていたことを、ドイツ語文献講読で読みましたね。Nさん、覚えていますか?
N: はい。解釈して理解できるようにしなければ、聖書の言葉は「死んでいる」と言っていました。
友雄: そうです。ルターの大胆な表現を借りると、聖書を解釈して神の言葉を「生かす」ことが大切なのです。この聖書解釈の最も基本的な作業が聖書の翻訳です。元々、旧約聖書は大部分がヘブライ語、新約聖書はギリシャ語で書かれました。これでは、ごく少数の人々しか聖書を理解することができません。そこで、大昔から聖書は他の言語に翻訳されてきました。
 先ず紀元前2世紀に、ヘブライ語の旧約聖書が、当時の世界共通語だったギリシャ語に翻訳されました。紀元6世紀にラテン語訳聖書、16世紀にルターのドイツ語訳聖書、17世紀に英訳(欽定訳)聖書ができました。これらの翻訳聖書は、いずれも、それぞれの言語を用いる社会に大きな影響を及ぼしました。一例をあげれば、ルターのドイツ語訳聖書がなかったら、バッハの音楽はありませんでした。
 私たちは、主として日本語訳聖書を用います。幸い、数種類の翻訳がありますから出来る限り比較して読んでみましょう。そうすると、解釈の違いが私たちの理解を助けてくれると同時に、どの解釈が正しいのかということを自分で考えなければならなくなります。このように、聖書を読む難しさと面白さは同居しています。
 第二の難しさは、聖書は、私たち日本人にとって「異文化圏」で、それも、2000年から3000年も昔の人たちが書いた文書の集成だということです。これほど「別世界」で成立した書物ですから、解らなくて当たり前なのです。逆に言えば、現代日本人の常識で聖書を読んで解ったと思っても、案外、誤解だったりするわけです。聖書という、異文化圏で大昔に書かれた書物を理解するためには、それ相応の準備が必要で、これは確かに難しいことです。

自分で読む努力
友雄: だからと言って、最初から解らないと諦めないでください。また下手に解説書を読むともっと解らなくなります。ともかく、自分で聖書を読むことです。エイリアンが書いたわけではありません。書いた人たちは、私たちと同じ人間でした。
 それにしても、聖書が読み難い文章であることは事実です。聞いたことがない仮名書きの人名や地名がやたらに出てくるし、解るようで解らない翻訳聖書独特の日本語には苛々するでしょう。例えば「義」などと言う言葉は、普通の日本語ではありません。
 それでも、少々我慢して読んでください。毎回、次週読む箇所を宿題にしますから、家で必ず読んできてください。音楽の練習と同じで、毎日読んでいれば、段々と慣れてくるものです。そして、理解できれば面白くなります。 次回は新約聖書のマタイによる福音書1章と、旧約聖書の創世記10章と11章10節から章の終わりまでを読みましょう。早速、仮名書きの人名と地名がぞろぞろと出てきますが、これらの地名表と人名表が何を意味しているか、考えてきてください。



たより

 先日は今年のフェスティヴァルの教会音楽コンサート「復活祭の歌」のCDと皆様の寄せ書きをいただき有り難うございました。このCDは何度も聴かせていただきましたが、本当に素晴らしいですね。ヤンさんが「バッハの森通信」に「最高の思い出」と書いていらっしゃいましたが、このCDからもコンサートの雰囲気が感じられ、聴けなかったことが残念です。

(牛久市 村田明子)

 今年のワークショップも、カンタータ12番の演奏に参加させていただき、奏楽堂の豊かな響きの中にあって感動のひとときでした。「復活祭の歌」は、全く雑念が入る余地がないほど、心が引きつけられるコンサートでした。

(杉並区 加藤羊子)

 5月のワークショップでは大変楽しい時を、ありがとうございました。今日、皆様と一緒に歌ったコンサートのCDがとどき早速聴かせていただきましたが、心に深く響く素晴らしい音です。思い出に大切にします。

(愛知県足助町 松岡春子)

 バッハの森のHPを時々見ています。遠くからでもカンタータを学べるプログラムがあればいいのですが...。

(鹿児島 中原敏昭)

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